成田為三は、1914年に上野の東京音楽学校で学び、ドイツから帰国したばかりの山田耕筰に師事しました。この歌は在学中の1916年に作られ、大正時代末期から広く歌われるようになりました。作詞の林古渓は、30歳を過ぎてから東京音楽学校で学び、当時音楽批評を執筆していた成田為三の先輩にあたる牛山充と知り合い、彼を通じて作曲用の詩を提供しました。※この譜面はピアノ伴奏譜付きです。