
モーツァルトのピアノ協奏曲の第1楽章はピアノのカデンツァに続いてオーケストラのトゥッティで幕を閉じるのが常であり、また稀にそれとは異なるカデンツァが介入することもある。その他、歌うようなメロディーを基にした即興やEingang(アインガング: 曲の終結部分より前に挿入される即興的パッセージ)などカデンツァ以外の即興もモーツァルトの楽曲にはしばしば登場する。モーツァルトはこのような即興的パッセージに対して必ずしもヒントになるような”素材”を残しているわけではなく、また自筆譜が紛失していることもあり、そのような場合独奏者は演奏会においても聴きごたえのあるカデンツァを自力で生み出す必要がある。
コンポーザー・ピアニスト(作曲家兼ピアニスト)であったブゾーニは作曲家自身がカデンツァを書き残している場合にはそれを尊重すべきだと主張していたが、一方でそもそもカデンツァは作曲家が自身の役割を演奏者に委ねる(演奏者による楽曲の部分的な改編を許す)目的で与えられている点、そして演奏者の個性を尊重するという点を考慮すれば演奏者自身によるカデンツァも認容されるべきともしている。第三者によって書かれたカデンツァは避けるべきだとしていたが、ブゾーニ自身、他の多くのピアニストや作曲家と同様にモーツァルトのピアノ協奏曲のカデンツァ集を3部出版している。
カデンツァの様式は様々であり、カデンツァの長さはその良い例である。一般的には当時の演奏スタイルに近いものが良しとされているが、即興を得意としない奏者にとってはモーツァルトが示した長さに近い形のカデンツァが必ずしも最善という訳ではない。モーツァルトの教え子であったヨハン・ネポムク・フンメルや同時期に活躍したフィリップ・カール・ホフマン、アウグスト・エベルハルト・ミュラーはいずれも精巧なカデンツァを書き上げているが、現代のピアニストによって書かれたカデンツァに比べて説得力に欠けることもある。例えばパウル・バドゥラ=スコダ、マリウス・フロトホイス、クリスティアン・ツァハリアスは綿密で上品なカデンツァとアインガングをモーツァルトのスタイルに沿った形で見事に書き上げている。
その他にはアンダ・ゲーザ、アーサー・バルサム、ヨハネス・ブラームス、エトヴィン・フィッシャー、ワンダ・ランドフスカ、ベドルジハ・スメタナやモーツァルトの息子のフランツ・クサーヴァー・モーツァルトなどが素晴らしいカデンツァを残しているが、特筆すべきなのはディヌ・リパッティ(KV467)、カミーユ・サン=サーンス(KV482)、クララ・シューマン(KV466)である。いずれもモーツァルトのスタイルの域を超えんばかりであるものの均整を保ち、また感情的でライブ演奏では非常に聴きごたえがある。
私が自分のカデンツァの書くようになったのは学生の頃である。当時はパウル・バドゥラ=スコダやフレデリック・ヌーマンのカデンツァの分析に随分と助けられながら、同時に自身の演奏者としての感性を信じて書いていた。私のカデンツァは大まかにはモーツァルトの古典的なスタイルに則っているが、その中にドラマチックな技法を含ませており、聴衆と他の独奏者の両者にとって興味がそそられるものであって欲しいと思っている。私は自身の生徒には視野と“聴野”を広げる練習として独自のカデンツァを作るよう熱心に勧めているが、安全策として私のカデンツァ(他のピアニストのカデンツァと共に)を使うことを認めている。ただしカデンツァを演奏しない選択は認めていない。
モーツァルトの作品の上に飾り付けをすることは、非常に難しく不可能に思えるかもしれない。しかしなから芸術の理想の創造に花を添え、貢献しその実現に近づく手助けをすることは可能なのである。
サラ・デイヴィス・ビュクナー
日本・東京 2019年6月
(翻訳:国田健)
モーツァルトのピアノ協奏曲 イ長調 (KV.488)のカデンツァについて
この作品にはモーツァルト自身によって書かれたカデンツァがありますが、私自身のカデンツァを演奏することにしています。ワンダ・ランドフスカが主張していたようにモーツァルトが書き残したカデンツァは学生の参考にする目的で書かれた節があります。楽曲の構成、 bravura(心を込めて大胆に)からはより大規模で主題との関連性を持ったカデンツァがふさわしいように感じられます。